「時間」と「決断」その2

中竹 竜二  

 よって次ぎは、「時間」を生み出す為の手段としてのサインプレーに焦点を当てたい。実際のプレーとプレーの間に具体的にどういった戦法で攻めるかを決める行為。FWがラインアウトやスクラムを組んでいる間に、ゲームリーダー(だいたいはスタンドフ)が次ぎの攻め手を考える。逆にディフェンス側もアタック側のサインを想定して、ディフェンスなりのサインを決める。もちろんサインプレーが実際に行なわれる中で、個人の自由な判断や変更は起こりうるが、基本的にどのライン攻撃を使って攻めるかは、プレーが始まる前に決めなければならない。今大会において、サインプレーにまつわる事柄で、非常に興味を引かれた人物がいた。3位決定戦(南アフリカ対ニュージーランド戦)での南アフリカのインサイドセンター・ムアーである。彼の一連の行動は、サインプレーをする側(アタック側)に立ったときではなく、ニュージーランドがアタックラインを整えた時の正面に立つディフェンスライン上での時間の使い方からすでに始まっている。敵のラインアウトやスクラムなどのセットプレーの直前から、ボールが出るまでのあいだに、必ずといっていいほど対面や相手のスタンドフを指差しながら何やら叫んでは、時には不気味な笑顔を浮かべ、時には鋭い目を凝らす。彼は,ニュージーランドの司令塔マーティンスだけでなく、巨漢ロムーへも何度となく挑発を繰り返した。事実、ムラーが絡んだタックルでディフェンスはことごとく完了し、その為、ニュージーランドの決断(サインを下すこと)が遅れはじめていたのだ。混乱とまでは言えないかもしれないが、マーティンスがサインを出すたびに、ムラーが叫び、また改めてサインを送る後方でロムーがうろうろとポジショニングを変える光景は、ニュージーランドがこの点において劣勢だったということが出来るだろう。

 次ぎは、1人の選手、もしくは人間としての「時間」使い方について書いてみよう。この大会でほぼラグビーの頂点を年齢的な理由により退くだろうと思われる選手達は何人もいただろう。 今大会でトップレベルでのラグビー人生に終止符を打つ選手にとって、このウェールズ大会はいかなる心境だったであろうか。当然、彼らの胸のうちを言葉で聞くことなど、あまり意味を持たないし、もっともそれは失礼だろう。しかし、彼らが立ったグランドにはある種の緊張感が存在したように思えた。その緊張感は、その個人がこれまで積み重ねてきた「時間」に刻まれた努力と栄光、後悔と喜びといった人生そのものから発したのだろうと想像した。そして、残り少ない限られた「時間」をこれまでにない集中力で味わっただろうと。そんな選手達が放つ緊張をここで観察してみたい。
 1秒たりとも、グランドの上での栄光を無駄にしない気迫。たとえば、日本人では最年長の33歳・桜庭選手。ウェールズ戦、途中交代で出てきた姿には、数分であろうとも人間の大きさを感じた。彼の背中を見てワクワクしたのは僕だけではないだろう。これまでの時間の使い方がはるかに違っていただろうし、背負ったものも違っただろう。誤解を避けるが、こういったベテランの起用が絶対に良いと言っているわけではない。スポーツの世界ではいくら大きなバックグランドを持っていようとひとたびピッチに立つとすべてが帳消しにされるのだ。いくらがんばって練習した選手だって、もしくは多くの怪我と苦難を乗越えた選手だって、手を抜いてきた選手に負けることもある。前日に失恋しようが、不幸に見舞われようが、一旦試合が始まれば、誰もが両者を同等に見ることで成り立つのがスポーツである。だから、試合への情熱に関係なく選手は選考されるべきで、個人の技量を評価されるべきだろう。しかし、この種の議論(若手がいいかベテランがいいかの議論)は、今も昔も問われてきた。学校スポーツレベルでも、才能を光らせ、物怖じしない若手を見込んで出すか、最終学年のちょっと下手糞だけどタックルとセービングだけは躊躇わないがんばり屋を出すかの議論には唯一の回答は存在しない。チームに与える影響とその個人の人間としての力の大きさにもよるだろうし、相手チームも関係してくるだろう。しかし、この4年に一度のワールドカップは、順序よく学年をつむ学生の大会とは大きく違う。人生をかけて戦う個人が大量に注ぎこまれた国同士の戦いだ。この戦場では、他人(いや本人も)の予想をはるかに越えるプレーもしばしば起こりうるのだ。意地、闘志、情熱、ねばり。それらが大きな背中を伝い、指先まで通った選手達が、この大会でも登場した。
 ジャパン初戦対サモア。ロバートゴードン、ジャパン最年長34歳。どう見ても、体はきつそうである。フィジカルな面だけで言えば、若き全盛期のころよりもはるかにスピードも持久力も落ちているはずである。しかし、この試合での彼のボールへの働きかけは、その体力面とスキル面を超えたところにある気がした。ゲームではいかに自分の持っているスキルを生み出すか勝負である。よってその場面を多く持つ選手ほど、よいプレーヤーである。ゴードン選手のディフェンスに注目すると、ディフェンスというひとつの仕事が終わるまで、自分の体を殺さないことである。ここではあえて、タックルとディフェンスの意味を分けた。タックルはボールキャリアを倒す為の行為。ディフェンスは敵の攻撃を防ぐ為の行為、いわばボールを奪う為の行為。よって、ディフェンスの一手段としてタックルが含まれることであり、ディフェンスはタックルとは限らない。彼はどんなにいいタックルを決めても、それがディフェンスとして効果がなければ、直ちに起きあがりボールを追い、時にタックルではなく敵が持っているボール自体に飛び込んだ。
 先に体力面とスキル面を超えると書いたが、これは単に精神面を言いたいのではない。これは人間力と言うか人間としての総合力がグランドの上にプレーとして表現されることである。それは気合の声や顔、激しいコンタクトにあらわれるというよりも、むしろ激しいコンタクト後の(倒れながらの)最後のあがきやもがきの方が感じ取りやすい。もっとも僕が刺激を受けたのは、彼の「指先」だった。事実、ラグビーでは指先だけが何とか引っかかったタックル、もしくはボールへの絡みがビッグゲームを左右することが少なくない。この試合、ゴードン選手の指先には「時間」を惜しむ緊張感が漂っていた。
 ここでまた、あらたな誤解を避けるために一つ説明を加えよう。個人の質高い人生の積み重ねは年齢とは比例しないことを。緊張感を放った選手とは、決してベテランとは限らないことを。ジャパン2戦目対ウェールズ。この試合で、目をひいたのはフランカー、グレック・スミス(31歳)である。スミス選手もゴードン選手と同じく、タックルではなくディフェンスを大前提としてプレーしている。自分の体を殺さないのだ。殺さないとは、プレーできない状態にしないこと。彼は、倒れたり、パスしたあとのボールキャリアに無駄にあたって止まるなどといった、体を停止せざるを得ない状況をとても嫌うのである。この試合のほとんどの大ピンチを救っているのは彼のカバーディフェンスであった。しかし、フランカーである為、走り方がBKと違い、相手BKを追う姿はなんかは見ていて時に不安があった。しかし、その不安を一気に解消してしまう彼のタックルは、指先に張りがあり、タックルの瞬間、身体全体が大きく伸びるのである。獲物を追っている野生動物のたとえがふさわしい。
 一方で、この日、ワールドカップにおいて、ジャパンの初トライが生まれた。ウイング・大畑選手がこのコースしかないという走りでコーナーに飛び込んだ。地元のアナウンサーも「速い、速い」の連発。観客も大拍手。しかし、このトライを語るにはセンター・元木選手のその前のプレーをはずせない。セットプレーから3回の猛烈なタックルを決めたあと、最後はウェールズの選手がラックにする寸前のボールを奪ったのである。これがターン・オーバーとなり、ジャパン初のトライが生まれた。スミス選手が野生動物とすれば、元木選手はガキ大将。いわゆる人間らしさが主だった。マコーミック主将もそうだが、彼らはつねに相手と勝負している雰囲気があり,それはただの勝負と言うより、人間対人間のけんかと言った方がいい。両センター陣には気迫、迫力、意地、ときには怒りといった感情も覗えた。その種の気迫はこの日、ツイドラキ選手にも明らかだった。
 人間らしいか動物らしいか、どちらも個性である為、その間に優劣はない。スミス選手の様に、動物的で感情や気迫があまり感じ取れないにしても、怖さは常に存在する。どちらを問わず、あるものを極めた空間は、やはり見ている者に緊張を与えた。
 この試合(ジャパン二戦目対ウェールズ)の翌日、10月10日。ウェールズのラネリーという伝統的なラグビーの町で、先の緊張感と共に大きな勇気をくれた試合があった。アルゼンチン対サモア、同じDプールの予選カードだ。空いたスペースに鋭く切れこむアルゼンチンのBK陣。しかし、鮮やかに裏に抜けたあとは、三回に一度の確率で、あの衝突事故が発生。アルゼンチンの華麗な連続アタックがサモアの一発の猛タックルによって台無しになるのだ。サモアの強さはこれである。ジャパン戦でもそうだったが、サモアのディフェンスは「かたい」のではなく、「個々が(物理的に)強い」のである。もっと詳しく言えば、ディフェンスの「面」で強いのではなく、タックルの「点」において強いのだ。逆に、チームディフェンスの強さと言う点ではアルゼンチンの方にあった。個人のパワーでは優位に立てないアルゼンチンは速い出足と、内からの分厚いカバーディフェンスでスペースを埋めて行く。時折、体格とパワーによる個人差で、ゲイン突破をはかられるが、次に行くタックラーが確実にその死角から飛びつく。基本的に日本の指導書にあるような低く鋭いタックルだが、必要に応じてスマザータックルやハイタックルを巧みに使い分ける。ボールを殺しに行くために、最近日本でもハイタックルが奨励されてきたが、アルゼンチンのそれらの目的は単にそうではなさそうだった。ボールキャリアの一番弱い方向とスピード、そしてタックラーの一番強い方向とスピードを換算し、タックル時に最大のパワーが発揮できるポイントを狙っているように思えた。要するに、ベストのタックルポイントに入ることであろう。スピードに乗った選手には低く鋭く、また、走り始めのまだ勢いのない選手には力強く真っ向から飛び掛かる。事実、この試合、主将アルビス(センター)は175cm・78kg、それより小さい左ウイング・アルバネッセとスクラムハーフ・ピショットは同じくして174cm・78kg。途中交代のウイング・カマルドンも178cm・85kgであった。これらは花園大会に出てくる高校生とあまり変わりはしないだろう。しかし彼らは、ジャパンが止められなかった、あの巨人達をチームディフェンスで止めたのである。サモア一人の選手にアルゼンチンは三人かかるときもあった。しかし、そのときの三人の総合力はおそらく単に足し算するのではなく、掛け算にちかいものがあっただろう。数字的に一人に三人行けば、サモアの数は必然的に余る。しかし、その三人が入ったラックやモールは簡単にボールが出てこないか、もしくはパイルアップかターンオーバーになった。これは、いかに3人が効率よく、相手のボールもしくはボディーコントロールを阻止していたかがわかる。後半、見事なアルゼンチンの逆転勝利。そして、それは小さいな日本人に大きな勇気をくれた試合だった。チームディフェンスで世界の巨大ロボット達を止めるチャンスはまだまだある、そう確信した。アタックにおいても、後半から徐々に衝突の確率が減っているのに気づいた。「間」を支配され猛タックルを数多く食らった前半とは、打って変わり、パスやキック、ボディコントールなどの小さな局面において速い決断が彼ら一人一人に見られた。全員に見られたということは、ハーフタイムに監督もしくは主将のもとでチームとしての大きな決断が下されたと想像してもいいだろう。猛タックルを極力避ける決断の速さとチームディフェンスの緻密さでまだまだ日本が世界と戦えることをアルゼンチンが証明してくれた試合だった。

 最後に優勝したオーストラリアのラグビーを振り返ってみたい。正直言って、目をとどまらせるほどのタックルはあまり記憶にない。実際の時計の時間よりも長く感じた時間もほとんどなかっただろう。そうなると、先に書いた自分の考察と矛盾することになる。よって、さらに詳しく観察してみる必要がある。準決勝戦対南アフリカ。両者ともトライによる失点なし、さらに決勝戦の切符獲得の為に20分の延長戦を含んだ、今大会のベストゲームの一つだ。オーストラリアも文字通りの鉄壁を見せたが、南アフリカのディフェンスとは種類が違った。比較する為に、南アフリカのディフェンスの強さを先ほどとは別の視点から述べてみる。大まかに言わせてもらうと、南アフリカの防御はタックルの数の多さやカバーディフェンスの素早さによるの強さではない。チームディフェンスとしてのねばりより、個人のねばりの方が目立つ。前者が決して頼りないわけではない。後者が目立ちすぎるのだ。「ねばり」、ラグビーではよく使われる言葉だ。「ねばり強い」もよく使う。しかし、南アフリカの選手は「ねばり強い(ねばったから強い)」のではなく、「強いねばり(強さがしつこくねばる)」のである。
 次ぎにオーストラリア。やはり、南アフリカほどの「強いねばり」が見えない。サモアほどの「パワー」も見えない。ところがよく見てみると、クラッシュ時のにぶい音は聞こえないにしても、攻めているはずの南アフリカが圧力を受けているのがよく分かる。もっとよく観察すると、パワーが見えないということとパワーが無いと言うことが同義でない事に気づく。パワーとパワーがぶつかればもちろんそれは目に見えるが、相手のパワーの無いところに全体重を注ぎ込むタックルは「力強さ」があらわれにくいのだ。体力的にも時間的にも最も効率よく、ラグビーコンタクト(タックルや当たりなどの接触プレー)をおこなっているオーストラリア。スキル的に「うまい」からこそ、パワーが一人歩きせず、コンタクトプレーの始まりと終わりの時間が短くなる。すなわち、タックルで言えば相手に触れてから倒すまでがはやい。これは、攻撃面を見てもよく分かる。オーストラリアはボール・リサイクルがきわめてはやい。ボディー・コントロールがうまい。パワーを注ぎ込むべき瞬間と方向を常に探しているように「スッ」とラックを作り、「サッ」とオーバーを行なう。一方、南アフリカは腕力や背筋力に任せ、「ググッ」と相手の絡んだ手を引きちぎるようにラックを作り、「ガバーン」とオーバーをする。「ググッ」と「ガバーン」はラグビーにおいて、多くの時間とパワーを消費するのだ。逆に、スムーズな流れがオーストラリアの強さである。ここには「間」が存在しないのではなく、常にその「間」を彼らが支配し、柔術の決め技のように、完全に勝者と敗者を分けた「イッポン」の「間」が存在するのである。そして細かいプレーの局面を支配し、おなじくゲームと大きな局面においてもイッポン勝ちを決めたのである。結果、美しく、柔らかく、そして違和感もなく2度目のエリスカップを手にしたのだ。

 今回、「時間」と言う問題に焦点を絞り観察を続けた。さまざまな時間の観点、大局的な「時間」やプレー時における一瞬の「間」など。それに絶対的に付随する「判断」と「決断」にも触れた。一番目にいい「判断」と二番目にいい「判断」と、その迷いの「時間」についても書いた。「時間」を支配するのもはゲームを支配する。ゲームを支配するのは大会を制覇する。逆に、「時間」をコントロールできなかったチームはボールを支配できず、ゲームを支配できずに大会を去った。
 「時間」。限られているからこそコントロールしなければならない。敵がいるから、コントロールをするための戦いがある。さらにその戦いの為の準備すべてが「時間」にコントロールされている。よって、常に「時間」そのものと戦わなければならない。敵と時間。どちらの戦いも、ひとつの強い方向と決断がなければ勝てない。勝てるとするならばそれは格下の相手か、もしくは余裕があるときだけであろう。今回、残念ながらDプールではジャパンにとって格下の相手はいなかった。事実、サモア、ウェールズ、アルゼンチンも「強い決断」もって「時間」をコントロールし、ジャパンをコントロールすることに成功した。それぞれの監督、ブライアン・ウィリアムズ(サモア)、グラハム・ヘンリー(ウェールズ)、アレックス・ワイリー(アルゼンチン)らの敵将たちには、「良き判断」より、「強い決断」の方がの断然ふさわしいかった。迷うことを恐れ、戦いを畏れ尊び、観客席からであろうと常に緊張感を放っていた。決断を下した本人たちは、すべての責任を堂々と背負い、練習、試合、記者会見のいかなる場においても常に先頭に立った。では、ジャパンはどうであったか? 戦略、戦術、そしてフィールドにおけるさまざまの局面で、ジャパンはいかなる「決断」、そして、それをいつ下したのかを改めて考えることは必要であろう。そして、4年後、再び、いかにジャパンが「時間」をコントロールするべきかを問われるだろう。その為にも一刻も速く「強い決断」を下し、チームとしての勢いを手に入れて欲しい。

PHOTO BY Kenichi Seki

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