〜わたしは先ほど申し上げたように八年間戦争にいってきました。人も殺しましたし、捕虜をぶん殴りもしました。しかし、そのときに、こうなったら、つまり、いったん戦争になってしまったら人間はもうだめなんだとういことを感じました。そこに遭遇した二人の人間や敵対する者の間には、ひとつも個人的な恨みはないんです。向こうが撃ってきよるし、死んじまうのはいやだから撃っていくというだけのことで、それが戦争のすがたなんです。 |
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そこにいるのは、狂人ばかりで、大学で人間が教えられる理性とか知性とか、そんなもん微塵もありません、なんの役にもたちません。もしなんかできるとするならば、その前にそういう状況にならないようにするための人間をつくっていかなければならんということです。ぼくはそう思うんです。 |
それはまさにわれわれがスポーツを実践していくなかからグループをつくって、たとえば、わたしはラグビーをやっておりますから闘争の倫理とフェアプレイの精神、あるいはスポーツマンシップを共通の精神としたひとつのグループをつくる。そういうグループを社会の基礎集団としてあっちこっちにつくって、スポーツマンの団結したソシアル・フォーセス、社会的な勢力をつくりあげる。権力者がもし戦争にもって行きよったら、われわれは一銭五厘で−いまなら40円ですが−戦場に放り出されて殺されてしまうんですから。〜
(昭和62年「世界」500号記念〜最終講義〜よりの抜粋) |
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2000年 初夏 |